竹田城
別名 虎臥城 | 付近住所 朝来市和田山町竹田 | 現在- |
2008/4/26 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
太田垣光景→ 太田垣景近→ 太田垣宗朝→ 太田垣宗寿→ 太田垣朝延→ 太田垣輝延→ 羽柴秀長→ 桑山重晴→ 赤松広秀 |
遺構について 竹田城は嘉吉年間(1441-43)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。最近の調査では、現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、廃城時(慶長5年-1600)にごく近い時代と考えられている。 竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。 また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。 規模は南北約400m、東西約100mである。 (昭和18年9月8日、国史跡に指定) 石垣について 竹田城遺構の見せ場は石垣にある。この石垣は構築技法からみて、穴太積みを採用している。穴太積みとは、近江国(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣といえよう。野面積みとは、加工をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるが水はけがよく、崩れを防ぐ。 竹田城の場合、石垣が築かれてから約400年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。 |